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【健次郎ゆかりの人】三浦乾也

 日比谷健次郎の遠戚のなかに三浦乾也(みうらけんや、1821~1889)という人物がいます。三浦乾也は、一般的に「幕末~明治初期の陶工」といった肩書きで紹介されます。しかし、この乾也は陶芸のみならず、絵や蒔絵、彫刻などの芸術や最新の科学技術にも通じる才能を発揮しました。幕末の鬼才ともいわれる、実にエネルギッシュな人物です。

三浦乾也(幼名は藤太郎)は、文政4年(1821)3月3日に銀座で生まれました。文政年間といえば、いわゆる「化政文化」といわれる町人文化が花開いていた時期です。そのような時代に、長唄囃子(ながうたはやし)の笛師である住田清七のもとに生まれ、二歳のときに三浦姓をつぎました。

十六歳で父親と死別後、乾也は伯母のタケのもとに引き取られます。タケの夫は井田吉六(いだきちろく)という陶工でした。吉六は、時の将軍徳川家斉の面前で陶芸を披露するほどの江戸屈指の名工でした。乾也は吉六のもとで楽焼※1を学びました。それだけでなく、吉原の数寄者(すきしゃ)※2である西村藐庵(にしむらみゃくあん)のもとにも入門しました。藐庵は酒井抱一から奥義を譲り受け、「尾形乾山五世」として名高い陶工でもありました。乾也は25歳のときに「乾山六世」を襲名し、乾山流の後継者となります(乾也は24歳から3年間石井家の養子であったため、このときは石井姓)。ここから、乾也の作品は「乾也焼」として世に知られていきます。大老井伊直弼から書棚を注文され、老中阿部正弘や、水戸藩主徳川斉昭らが乾也から指導を仰ぐようになりました。

 ここまで、陶工としての一見順調にみえる人生を送った乾也ですが、嘉永6年(1853)、齢32歳にして転機が訪れます。黒船来航です。

乾也は実際に浦賀まで行き、小舟で沖に出て黒船を観察しました。さらに江戸に戻った乾也は造船術を学び、蒸気船の雛型を作成します。そして阿部正弘に軍艦開発の必要性を建言します。安政元年(1854)には幕府の命令で長崎に行き、3か月の間に造艦技術や反射炉など様々なことを学びます。一連の行動から、乾也がいかに行動力のある人物であったかが読み取れます。

そして、安政3年(1856)には仙台藩に招かれ、ついに「開成丸」という洋式軍艦を実際に建造し、これを見事に完成させます。

 陶工である乾也が、たった3か月の伝習で学んだ造艦技術から実際に軍艦を完成させてしまうというのは、そのマルチな才覚が垣間見えるエピソードといえるでしょう。

 明治維新後の乾也は、再び陶工として名を馳せ、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会や、翌11年(1878)パリ万国博覧会に作品を出品し好評を博しました。

 明治22年(1889)10月7日、満68歳でその生涯に幕を下ろしました。

※1 ろくろを使用しないで作る焼き物。

※2 風流人のこと。

〔参考文献〕

益井邦夫『幕末の鬼才・三浦乾也』(里文出版、1992年)

『国史大辞典』第13巻(吉川弘文館、1992年)

    執筆者 日比谷 勇希

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