日比谷 健次郎 その人物像と歴史
日本ではじめて和独辞典を発行した人がいました。その人は、幕末に剣士として名を馳せ、文化や美術をたしなみながら動乱の時代を生き抜いた人でした。江戸・東京の北にある武蔵国足立の郷士、日比谷健次郎(ひびや・けんじろう)です。
1.成長する若き龍 ―剣術と美術工芸品―
健次郎は、足立の惣名主で郷士だった日比谷家に1836年に生まれました。12歳になると、父の佐吉が亡くなり日比谷家の家督を継ぎました。日比谷家はもともと幕府の御用に携わっていましたが、健次郎は新しい知識、学芸によって、様々なことに取り組みます。18歳の時には当時、谷文晁の門人絵師として活躍していた舩津文渕に琳派風の襖絵を発注するなど、工芸への関心も高めていきます。
さらに自己を磨くため有名な江戸の千葉道場で北辰一刀流の剣術を学び、21歳のときに免許皆伝となります。剣術での活躍や教養の豊かさで知られるようになり、22歳のときには幕府高官だった筒井政憲(つつい・まさのり)※ から「乾惕」(=若き龍の意)という書を贈られています。
この頃、三郷の加藤翠渓(かとう・すいけい)の娘と結婚し、24歳のとき長女しんが生まれました。健次郎は長女の誕生を祝い、工芸品としてすばらしい雛飾り(写真下)をあつらえました。いま、この雛飾りは、幕末期江戸雛飾りの名品(古今雛)として東京国立博物館で見ることができます。
※ 筒井政憲:号は鑾渓(らんけい)、目付、長崎奉行、南町奉行を歴任。プチャーチン来航時には交渉の全権代表となる。
日比谷 健次郎
時代 江戸時代
生誕 天保7年(1836年)
死没 明治19年
(1886年1月15日)
戒名 圓受院道本日玉居士
墓所 国土安穏寺
2.郷士としての活躍 ―道場と幕末の動乱―
剣術はその後も広がりを見せ、道場を開いて25歳の頃には江戸内外に知られるようになりました。道場で使われたとおぼしい様々な武具がいまも伝えられています。なかには大名藩主級が用いる工芸品として評価が高い甲冑や鎖帷子(くさりかたびら)などがあり、もあり、健次郎らしい品ぞろえがありました。これらの武具は工芸品としての役割だけではなく、治安の悪い時代で実戦にも用いるものでした。
そして、時代は幕末維新、激動する社会となっていました。健次郎は30代になると徳川家を支える郷士として活躍します。長州戦争での将軍上洛費用の支援、幕府講武所の武士たちを守ることや、近隣の大地主たちと幕府の資金援助を行うなど、幕府を支えようと努力していました。この頃、土方歳三との交流があったと伝わります。
33歳の時、戊辰戦争と明治維新が起こり、健次郎が支えようとしていた幕府は瓦解、健次郎をとりまく政治情勢は一変しました。
3.文化のちから ―勝海舟も絶賛、初の和独辞書を刊行―
健次郎は新しい時代を迎えると文化に力を注ぎます。行動力と教養ともに豊かな人として、健次郎らしい業績であったのが和独辞書『和獨對譯字林』(写真下)の発行です。
妻の父、加藤翠渓も剣術家(北辰一刀流免許皆伝)で文化人でした。健次郎は翠渓といっしょに日本で最初の和独辞典を作ることを企画します。辞書の発行は今でもたいへんな仕事です。とりわけ、苦心したのがドイツ人校訂者を探すことでした。戊辰戦争の余韻が残っていた時代、二人は京都へ出かけ校訂者を探し求めます。ついにドイツ人技師のレーマンと出会います。
42歳となった1877年、『和獨對譯字林』と題し、日本初の和独辞典を発行しました。日本には新しい時代にドイツ語理解が必要になると信じ、辞書の刊行を成し遂げたのです。辞書の発行は、快挙として幕末明治の偉人、勝海舟も賛辞を贈っています。
4.健次郎の遺産 ―郷士の豊かさ―
教養豊かな人として知られた健次郎は、50歳のとき、見事な漢文の石碑を遺しています。健次郎が支援していた教育者、牧野隆幸をしのぶ記念碑のため、格調高い文章を書いたのです。健次郎の文は当時の有名な教育学者だった荘司秀鷹が、すぐれた文字に書きおこして石に刻まれ、いまでは文化財となっています。
翌年の1886年、幕末明治に足跡を記した健次郎が早い生涯を閉じました。
健次郎の足跡と、その遺産は、当時の郷士たちが、文武ともに豊かだった様子を今に伝えています。貴重な剣術の記録や甲冑、豊かな美術工芸品、和独辞書の刊行といった健次郎の足跡は、激動の時代をかけぬけた江戸東京の郷士たちの幅広さや豊かさを伝えており、その遺産は色あせることはありません。
まさに健次郎の足跡と遺産は、当時の郷士たちの文武両道の姿を代表して今日に伝えるものでしょう。
※年齢は数え年です。各資料・美術品の展示スケジュールにつきましては、収蔵館へお問い合わせください。
寄稿=多田文夫(ただ・ふみお) 足立区立郷土博物館学芸員。放送大学非常勤講師(面接授業)。