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日比谷美津像

更新日:2022年8月31日

【ひびやみつ】
【狩野則信 作】
【絹本着色 一幅】
【明治元年(1868年)】

日比谷健次郎の依頼により描かれた、伊藤谷村(いとうやむら/現足立区綾瀬)の豪農、吉田家より嫁いだ健次郎の祖母、美津(1788年~1884年)の八十歳時の肖像画だ。


作者は表絵師も務めた狩野則信(のりのぶ)だが、本作が成立するまでに幾度かの変遷があったと見られ、日比谷家には則信の落款のある複数の「日比谷美津像」が伝来している。


本作(写真上)は最終作として絹地に描かれ、上部に漢詩賛が付されている。


さらに、真桑瓜(まくわうり)の上部や煙管など各所に金泥が施され、着物や帯には濃墨に漆などで光沢を出す手法で角度によって浮かび上がる細やかな紋様が描かれるなど、高価な素材と、高度な技法とが用いられている。




※狩野則信による日比谷美津像は、紙本着色での稿本(写真下)も残っている。


【日比谷家の肖像と作者、狩野則信】


《日比谷美津像》を描いたのが、表絵師、芝金杉片町狩野家の当主、狩野則信(生年不詳~1882)である。

幕末明治という変革期に一つの狩野家の旗頭となった則信の名は、徳川幕府治世最後の年の武鑑『袖玉武鑑』(慶応 3 年刊)に、「御絵師」の一人として記載されるのが唯一で、その後の足跡は、明治 14 年(1881年)に明治政府が刊行した勲章の一覧、『明治勲章図譜』の作図者として名が記録されるのみである。

その後に名を成す狩野芳崖や橋本雅邦が、明治前期のしばらくは製図などで糊口を凌いだように、則信も維新後は政府や民間の仕事を請けて作図を行ったものと推測される。

しかし、《日比谷美津像》が描かれたのは、漢詩賛の年記によれば維新直後の明治元年であり、則信は直前まで表絵師として幕府御用を務める立場にあった。

従来の社会環境が未だ変化しきらない状況下、御用絵師であった則信と日比谷健次郎がどのような結びつきで肖像の制作を合意し得たのか、その詳細こそ定かではないものの、日比谷家に伝わるこの一群の肖像は、徳川幕府から明治政府の世へと社会環境が移り変わる前後で、表絵師の人物がどのように人と繋がり、活動したのかを物語る、貴重な一例と言える。


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