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【健次郎ゆかりの人】“紡績王”日比谷平左衛門        ひびやへいざえもん

更新日:2022年9月8日


かつて,“日本の紡績王”とも“紡績界の元老”とも称された経営者がいた。彼の名を,日比谷平左衛門という。このホームペイジで取り上げられている日比谷健次郎の縁戚に連なる人物である。20世紀前半までの日本の紡績業は,国際的な競争力をもった外貨獲得産業であり,日本経済を牽引する役割を果たしていた。近代日本経済の中に刻まれた,彼の足跡を簡単にみてみよう。

日比谷平左衛門は,1848年,越後国南蒲原郡三条町(現・新潟県三条市)に生まれる。幼名を大島吉次郎という。幼少期から家業を熱心に手伝い,実家の旅籠に逗留した松本屋の斎藤弥助に気に入られ,江戸の糸問屋・松本屋に小僧として奉公することになる。こうして,繊維産業に関わることになる。そして,1877年,日比谷家の養女である茂登と結婚し,独立後,綿花商・日比谷商店を開業する。文明開化が叫ぶれた明治初期にあって,彼の経営手腕は瞬く間に評価されると,日本製布をはじめとした諸会社の経営危機を幾度も救うことになる。この中には,今風に言うところの“物言う株主”の圧力にさらされた鐘淵紡績(現・カネボウ)も含まれていた。

特に彼の手腕が発揮されたのが,富士紡績(現・フジボウ)の救済であった。同社は,水力を利用した紡績工場の活用により,安価で良質な綿糸の生産を目的に設立されたが,当初は予期した業績をあげることができなかった。そこで,同社に関わっていた森村市左衛門(TOTOの創業者)は,自分を信じて出資した投資家に責任を感じ,この再建を日比谷平左衛門に懇請したのである。日比谷平左衛門は,彼の“義心”に共感し,これを引受ける。そこで,慶應義塾出身であった和田豊治に声をかけ,経営改善に当たらせるとともに,日比谷商店より安価な原綿を供給することで,見事この再建を成し遂げている。

また,日露戦争後には,自邸に海軍の将兵を招き,自費で園遊会を開催するなど,彼の名声はビジネス界以外でも高まっていた。

その後,日比谷平左衛門は,1921年に没するが,彼が経営を立て直した多くの企業が今日まで存続していることを考えると,その業績はまさに,近代日本の“紡績王”と称するにふさわしいものであったといえよう。


【参考文献】

三科仁伸「日比谷平左衛門の企業家精神―日本製布・鐘淵紡績・富士紡績の再建―」,『史学』第88巻第1号,1-25頁。

執筆者 拓殖大学商学部 三科仁伸

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